学園のあゆみ

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神戸湊川~福住時代
<大正8年~昭和14年>

大正8年2月、校祖 幸田たま先生が神戸市西部湊川のほとり(神戸市兵庫区石井町3丁目67)に裁縫女塾を開設。民家の2階で最初の塾生はわずか3人であった。翌年に湊川裁縫女塾となり、塾舎を兵庫区大同町5丁目1番地12に移転。
大正10年3月、湊川裁縫女学校と改称し、幸田たま先生は校長に就任された。幸田たま先生の教育愛と熱意ある指導によって生徒数は次第に増加し、翌11年に神戸市灘区福住通5丁目10に新校舎を建設・移転する運びとなったが、台風のため倒れてしまった。
再度建築の後、昭和3年に文部省から甲種実業女学校の認可を受け、湊川高等女子職業学校と改称、幸田豊三先生が校長に就任された。同5年に湊川高等実業女学校と校名を改め、その後校舎を増築、拡張していった。同7年5月に幸田豊三校長が病没。翌8年2月に幸田たま先生が再び校長に就任。そして同13年7月、阪神大水害被災により教員2名、生徒8名が殉難。学舎の移転のやむなきにいたった。

神戸高尾時代
<昭和15年~昭和20年>

昭和13年7月の水禍の後、神戸市灘区王子町にある旧関西学院教育研究所に仮住まいすること約1年半、15年4月に神戸市灘区高尾通に新校舎を建築、移転した。だが落成式を数日後に控えた5月31日、火災により新校舎の大半を焼失。再度苦難の末、校舎建築がなされた。
昭和17年3月には財団法人湊川学園湊川高等女学校への昇格認可により、湊川高等女学校(柴 恒定校長)と改称、その後発展を期したが、20年6月5日、ついに戦禍をのがれることはできず、爆撃により校舎を焼失。神戸を去らねばならぬ運命となった。

三田、下相野時代
<昭和21年~昭和31年>

昭和20年戦禍の後、神戸の地に再建かなわず、三田市に疎開し、正覚寺を仮校舎とする。21年5月に下相野に移転、大阪造兵廠の倉庫跡を改造し再起した。23年7月に湊川家政学園設立(古林美代子学園長)の認可を受け、27年3月には学校法人湊川相野学園設立(幸田たま理事長)の認可を受けた。さらに同4月には湊川家政短期大学(稲田 稔郎学長)を開学。29年2月には湊川家政高等学校(幸田たま校長)を開校した。その後31年3月、火災により短大講義室、調理室が全焼した。

三田、四ツ辻時代
<昭和31年~昭和38年>

昭和31年8月、学校法人湊川相野学園は現在の三田市四ツ辻の新校舎に移転し、学園発展の礎石を築いた。
32年の1月に校租 幸田たま先生逝去。
33年には湊川家政短期大学および湊川家政高等学校は、それぞれ湊川女子短期大学、湊川女子高等学校と改称された。

三田、相野・四ツ辻時代
<昭和38年~現在>

相野校舎第一期工事落成により、昭和38年5月、湊川女子短期大学は四ツ辻校舎から相野校舎へ移転した。40年、大学は保育科増設の認可を受け、家政科・保育科の2科に分かれた。翌41年には湊川女子短期大学附属西舞子幼稚園及び附属相野幼稚園設置の認可を受けた。44年4月には、湊川女子短期大学保育科を幼児教育科に名称変更、家政科に養護教諭免許状の取得課程増設、高等学校には家政科・普通科に加えて商業科の設置等を申請し、認可された。
附属幼稚園の設置については、45年3月に神陵台幼稚園、57年3月に北摂第一幼稚園、62年に北摂中央幼稚園、平成5年に北摂学園幼稚園と、現在5園(西舞子幼稚園・神陵台幼稚園・北摂第一幼稚園・北摂中央幼稚園・北摂学園幼稚園)が開園し、さらに平成13年には附属キッズポート保育園を開園した。
短期大学には46年に児童教育学科設置認可、家政学科(46年に家政科より名称変更)には47年に衣料管理士養成コースが設置され、62年には2学科、4専攻、9コースに改組し認可された。さらに平成元年7月には三田市民大学(公開講座)も開設されるなど、開かれた学園として、地域とともに発展を続けている。